その一つが「阿波洲神社」
平井園のとなりに、なぜか昔からあります。
私が幼少の頃は近所の子供たちとの遊び場でもあった。
鬼ごっこをしたり、ドングリをパチンコで飛ばしたり・・日が暮れるまで遊んだ思い出があります。

もちろん初詣は阿波洲神社
なにかっていうとお宮にお参りいたします。

恒例の盆踊りも中止、今年はねぇ・・コロナだし。
旅行にも行けないので時間もあったし
いろいろ調べてみました。
『保谷の石仏と石塔二』によりますと
幕府の新田開発は享保九年(1724)からいっせいに始まり、今の新町、旧上保谷新田もそのころ開発が進み、江戸中期の宝暦二年(1752)粟嶋明神として勧請したようである。粟島は淡島とも書き、今は阿波洲と書く。
阿波洲と表記が変ったのは明治以降である。

らしい・・。
なぜ新田の鎮守に女神が祀られたのか・・?
でもなにか文献だけ読むとファッショナブルな感じもするし・・。
名前がコロコロ変わったり、柔軟な感じもします。
現在の阿波洲神社の奉納絵馬に当時の風習を知る手掛かりがありそうだ。
神社拝殿には、女神にぬかずく夫婦、手作りの素朴なもの、山車とお囃を描いたものなど大小21 枚の絵馬が奉納されている。

祭神は女神 頗梨采女(ハリサイニョ)
と、粟=淡にちなんで、日本神話に登場する小彦名命(スクナヒコノミコト)そして高望王という記述『西東京市教育委員会』になっている。
高望王は平氏由来の開拓の神であるらしい。

針供養の石祠らしい

明治の絵図では阿波洲神社の北東に愛宕台があり、この小石祠は愛宕権現として祀られていたものという。
針供養の祠
2010年ごろ、社務所を管理していた佐野さんの奥様から「最近でも、師走の頃なると祠の前に針が置かれていることがある。」という話を聞きました。
女神であったから、のち近隣からの安産祈願や三月節句による捨雛、裁縫に使った縫針を供養する、針供養の習俗が戦後にいたっても見られた。
その昔は社殿に女性は上がれなかったという・・。女神が焼き餅をやくからとのこと。今はそんなことはありません。
しかし現在の村鎮守としての氏子による祭祀は、五穀の豊穣、村の平穏である。
女神いう側面は現在は特にありません。
石碑を読み説くとさらに時代背景が見えてきます。
こちら↓は敷石記念碑 厚みのしっかりした石質です。


宅地化された今の新町では桑畑があって養蚕をしていたことなど想像つきません。
こちら↓は手水舎新築記念碑 昭和15年と刻んである。
裏面には連名が刻まれている。
神社のことで名前を残すときは連名で刻むこと、皆さんでやったということが大事・・。という話を年配の氏子の方から聞いたことがある。

昨年、万年塀をフェンスに替えたので見通しよくなりました。

浄水盤には明治十五年九月と願主、世話人、氏子の連名が彫られている。


立派です。とても使いやすくなりました。
近頃、気になってるのがコチラ↓

いつの間に・・。
そしてなぜかバショウ(ジャパニーズバナナ)まで生えている・・。
いったい誰が何の目的で・・。
不明です。

保谷市史には製藍では明治25年に徳島原産の藍種を購入し、試作地を開設した・・。と書いてあるが
種でも残っていて現在も生えるのだろうか・・。
その後、製茶、製藍が下火になり養蚕業が重要な位置を占めるようになったそうだ。
『保谷市史』を見ると保谷って蚕の産地で、かつて藍や織物の産地であったとの記述もあるが、それと何かが関係しているのか・・?
針供養の石祠もあるし・・。
謎は深まるばかりだが今後も調査したいと思っております。。
その昔から上保谷新田の鎮守神として鎮座してきた阿波洲神社
女神の特徴や庶民信仰の側面をもち、農作物の豊穣をお祈りしてきました。
近所には千川上水が流れていて、かつて神社の東側には水路も引いて小川があったそうで
この辺は千川上水沿いの文化圏ともいえるでしょう。

石碑を読んだりしてみると時代背景も見えてきたりして
素朴な神社ならではの良さってありますよね。

最近は自販機も設置されたので、冷えたドリンクがいつでも買えます。

鈴虫の音に秋の気配
今年は特別な夏になりました。