平井さんぽ

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岩城櫺子に月

2023.03.21
 御門訴事件を50年程前に研究されていた
大原(粟野)美紀子さんから平井週作の肖像画をいただいたのは
2022年の真蔵院でのことでした。
大原さん曰く
「50年程前に先輩先生から歴史を教えて頂く中で、御門訴事件を知り大変感激しました。 平井週作の肖像写真は、その頃、先輩先生から頂いたもので、出所を覚えていません」とのこと・・。

「出所がわかんないじゃなぁ・・。ホントかなぁ・・。調べようもないし・・。」と私、なかば諦めていたのですが・・。。

ここでは肖像画の全貌はお見せできないので、↓は一部だけ画像アップしますね。。。
剣道の相当な使い手だったそうで、凛々しいお顔をしてらっしゃいます。

※ちなみに我が家は週作さんの末裔ではありません。
確かめようもなくて諦めかけていたのですが、私は紋付袴の家紋に着目しました。

「なんだろう、この日の丸みたいな家紋・・。平井一族は皆、丸に抱き茗荷のはず・・。」
「まてよ・・。たしか大本家の墓石には、丸に抱き茗荷ともう一つ、謎の家紋が彫ってあったような・・。」・・と思いつき、すぐさま見に行ってみた。
たしかに四角い家紋が彫ってありました。
調べてみると『岩城櫺子に月』(いわきれんじにつき)という家紋であった。

ということは、もしかしたらこの肖像画は本人かもしれない・・。可能性出てきましたねぇ。
紋付と墓石の家紋では90度方向が違っているのも謎ですが・・。
「櫺」とは窓の縦格子のことである。
戦国武将岩城氏の家紋であり、岩城氏は現在の福島県いわき市にあった大舘城を拠点としていました。

初代平井伊左衛門の墓に「岩城」とあるのは、やはり岩城氏との関連を匂わせていますね。
「享保甲年上保谷新田発起人 岩城平井伊左衛門 平道喜」と初代平井伊左衛門の墓には、わかりやすく刻まれています。

この岩城が長年の謎でした。

郷土史家の滝島さんにも見てもらってご意見いただきました↓

戦国武将の岩城重隆などが活躍した時代は江戸幕府成立以前の天文年間(1532年~1555)なので、初代平井伊左衛門道喜の時代まで約200年の隔たりがあります。
新田の平井家は上保谷村から入植したので、上保谷村に来る前の居住地が陸奥の国の岩城氏に関わっていたと平井家に伝わっており、その岩城氏の家紋「岩城櫺子に月」をつかったのかもしれません。この岩城氏は常陸平氏の一族とされており、平井家が平国香や高望王を奉る所以になったと思われます。

全くの勝手な想像ですが、室町~戦国時代の武将や豪族は大抵は平氏か源氏の流れを汲んでいるので、自分たちは由緒ある平氏の末裔だと名乗りたかったのでしょうね。
今のいわき市は昔は「平(たいら)」だったので、確かに平氏のゆかりの地ではありますが、平井家の先祖が本当に平氏とつながっていたかは分かりませんね。
岩城氏が国替えをした経偉から、縁者が各地に散らばって新たな名字を名のったのかもしれませんが、これ以上はわかりませんねぇ。。。
粟嶋明神を勧請したときは、「小彦名命」だったのかも知れませんが、後に平家ゆかりの神「高望王」を併せて明治以降に阿波洲神社として奉ったのかもしれません。それだけ平井大本家は自分の出生を正当化しようとしたのかもしれません。
上保谷にいるときはそう名のっていたのかな? おそらく新田に出た時からかもしれませんね。

とまぁ、滝島さんにはよく調べていただき、
推測を含め貴重なご意見いただきました。
※新しくなった如意輪寺鐘撞堂

上保谷新田は古文書など参考になる文献も乏しいので、真実は藪の中・・。
しかしながら肖像画の紋付と墓石に刻まれた家紋が一致しているかもしれない・・。

大きな発見でございました。

並木綱五郎 諸説ありまして・・。

2023.03.04
 橋場には、つい寄り道してしまう赤提灯がありまして、たまにはグッと呑みにいく訳ですが・・。。
「やきとりグッド」の店主 並木静夫さんが
撃剣家 並木綱五郎の親類筋だと聞いたのは
2020年頃のことであった。
なにしろ寺の過去帳にも、時の政府の追求を怖れたのか、関係する記述がほとんど残ってなく先祖の言い伝えしかないそうで・・。

以下、並木綱五郎とごっちゃになるので、並木静夫さんのことは「焼き鳥屋店主」と表記しますね。

芝久保墓地には並木綱五郎の墓があります。
NHK大河ドラマ『青天を衝け』でも渋沢栄一と田無保谷もそこそこは関係がありまして、並木綱五郎のお墓を訪れる方もいたので、焼き鳥屋店主はお墓の掃除を励んだそうです。
北辰一刀流の剣豪 並木胤繁は文政8年(1825年)に田無村で生まれました。
病をへて46才(明治4年)で亡くなりますが、十周己の(明治14年)に門下生39名がお墓を建立しました。

門人たちの友情、そして先生への恩義は忘れないのですね・・。
西東京市指定16号の文化財である。


幕末期になると、村の自衛欲求とも相まって、農村部で武芸の稽古を行う者も増えた。幕末の田無にも剣術家がいて道場を開いている。
並木は北辰一刀流を江戸の千葉道場で学び、その奥殿を許され帰郷し、並木胤繁を名乗ったという。
元治、慶応の頃には田無に道場をもち、近郷からも門人がふえたそうで
墓石に刻まれた門人名を見ると、田無、関前、西久保、境などを中心に近郷の村々の名前が読み取れます。。
週作は筆頭幹事で名前を刻んでいる。
明治3年の御門訴事件の時も、幕末期からの多摩地域の農民たちの武芸の交流があったので、たくさんの人々を集めることができたのかも知れませんね・・。
また、武術の心得があったのに、非暴力の、門前での訴え「門訴」を行った・・。と、なんとマナーの良いことでしょう。

いったい誰の指導のもとで「門訴」という手段に踏み切ったのだろうか?
徳川の浪人が、裏で農民たちを煽動しているのでは・・。と、噂されたそうだ。
「綱五郎は農民たちに武術を教えて、道場なんか開いているから暗殺されたんだ」・・。と子供のころ、祖父から聞かされていたそうです。
先祖からの言い伝えらしきことで・・。
なんのこっちゃ?・・。と当時は聞いていたが確かに言っていたそうです。

田無市史には並木綱五郎は明治4年に病をえて46歳でこの世を去った。とだけ書かれている

いくら武芸を教えてくれた先生とはいえ、ここまでのお墓を造るだろうか?

また、亡くなってすぐではなく、墓は明治14年、10回忌ということで建立したのも不自然で、仏教的に考えると13回忌でなにか行うのが普通ですもんね。

招魂搭(明治12年建立)at新町共同墓地

明治3年に御門訴事件が勃発して、週作(当時はまだ週作を名のっておらず虎之介)の逃亡は正確にはわかっていませんが5~6年とといわれ、逃亡中の明治4年に並木綱五郎先生は亡くなっている。
新政府組織からすれば、農民にまで武芸を教えているなんて、クーデターの元凶というか、並木綱五郎は非常に危険な存在であったには違いない。
週作は帰郷してしばらくしてから、亡き師匠のお墓建立の世話人をしたのではないだろうか・・。
浄水盤(明治15年建立)at阿波洲神社

いずれにせよ歴史には闇の部分はつきものでして、文献が燃やされてなかったり、真相は調べようもないことが多いです。
石碑の建立年が近かったり、共通人物が彫っていたりすると、ドキッとしますね。

現代の我々に無言でなにかを伝えようとしているのかもしれません。

元三大師堂の欄干の謎

2023.02.20
 その日は、朝早い仕入れの仕事だったので、クタクタになってボーっとして帰ってくるのだが
疲れはてて、お昼に街道沿いのラーメンも近頃歳のせいか胸焼けもするし
深大寺そばでも、あっさり食べて帰るか・・。ということにした。
せっかくだし、ぶらぶら散歩。。。やはり近場の一大観光地、いいねぇ深大寺は・・。
国宝もあるし あちこち水が湧いてて
緑潤い素晴らしい
元三大師堂をお参りしてきた。
階段をの昇ると、偶然、最近気になっているあの方々の名前を発見した!
向かい合う感じで最上位の一番目立つところに設置されていた。
多摩郡田無 下田半兵衛

隣の石の風化具合を見ても分かりますよね・・。
石質も良くしっかりしているので、現在でもよく読み取れます。
上保谷新田 平井伊左衛門


あまりに偶然の発見であったので、興奮気味に、郷土史研究家の知り合いにも写真を送りまくってしまった・・。

郷土史研究家の滝島さんからは以下のメッセージをいただいた。↓

「お互い良いポジションを確保していますね。
相当額の寄進だったのでしょう。
田無の下田半兵衛さんは別格の名主なので分かりますが、伊左衛門がこの位置に名を刻んでいるのは驚きです。
元三大師堂が再建されたのは慶応3年(1867)ということから考えて、5代目平井伊左衛門・存知の寄進と思われます。
同じく半兵衛は富潤と思われます。
幕末の火災で類焼したので元三大師堂が再建されたのは155年前のことです。
伊左衛門・存知は、御門訴事件の時、拷問をうけた週作のお父さんです。」

以下、私↓
「どうして新田名主が欄干に名前を彫ることができたのでしょうか?
御門訴で農民が立ち上がり勝ち取った減額要求によって400の村々に恩恵があったとどこかで読みました、あくまで仮説ですが、誰かがこっそり義援金的なスポンサーをしたとか・・。?」

T氏↓
「大師堂が再建されたのは御門訴事件の3年前ですので、伊左衛門も水車などで金銭的に裕福であったと思われます。
御門訴事件後の社倉金の減額の恩恵をさずかって門訴にはいかなかった村々はラッキーだったということでしょう。」

私↓
「元三大師堂が先に再建されて後ほど欄干が制作されたということは考えられますか?」

などなど・・。貴重なご意見いただきました。


※ちなみに存知さんも週作さんも私の先祖ではありません。

しかし、どのような経緯で欄干に名前を刻めたか・・。
結局、真相はわかりませんでした。
ご存知の方いらっしゃったら情報を、是非教えていただきたい。


元三大師は厄除けの大師さまです。
深大寺といえば、東京では浅草寺に次ぐ古刹、檀家さんを中心としたしっかりとした村組織があるだろうに・・。
よそ者が欄干の最上位に名前を刻むなんて恐れ多いことですね。



西東京市には「深大寺街道」という古道があります。江戸時代の近世では元三大師(がんさんたいし)を奉る深大寺までの参詣の道として一本道で行けたので、昔の方々もよく参っていたのでしょう・・。
その続きで武蔵野市関前あたりにも「大師通り」があります。
元三大師につづく道、という大切な道であったのですね。
大正時代に境浄水場が作られ分断されてしまいましたが、それまでは南北の行きかいの道として使われていたようです。

明治3年の御門訴事件の時、保谷、境、調布の農民たちも、大師通りをひた走って情報を伝達していたかも・・。と想像します。 しかし、今回、「存知」というワードが数多く出ました。

どなたか欄干の謎、ご存知ないですか?

神風連さんぽ

2023.02.17
 たまに、神社の境内で武術の稽古に励んでいる方が、劇画界の巨匠『とみ新造』先生であると知ったのは10年遅かった。。。
あまりにも遅すぎた。
弟子たちと共に日々、稽古に励んでいる

とみ先生は現在77才、最後の作品のつもりで書いたという『神風連の乱』を、ご献本いただいた。
1876年(明治9年)に制定された廃刀令に反対した士族の反乱の史実を漫画化した作品である。 サムライ精神てんこ盛り、日本人にはあんな気質があったのね。
明治初期の時代背景もよく解りました。
歴史の話でも意気投合して盛り上がって、お話たくさん聞けて、一発で、とみ先生大好きになりました。


先日、たまたま熊本にいく用事があったので 熊本城である。
パキーン!と再建築されたお城は、たしかに素晴らしいのだが
アミューズメントパーク化というか、たまに武芸のショーとかやっていて、フードコートとかも充実しているのだが・・。
近代建築の創意を尽くして復旧されたお城には、かつての古びた味わいはなく
どーもあの手のバキバキの観光地は 苦手である。


駅から同じくらいの距離にある
「神風連資料館」を見学してきた。
熊本城とはうって変わって
訪れる人も少なく、白川沿いにひっそりと
陰と陽
ありますね。

桜山神社🌸の境内に神風連資料館はあります。
明治9年に政府と対立して桜花のように散ってていった123人の石碑が後年安置されました。
賊軍(敵)である神風連を後年、美化して敬ったりするあたりも、日本人気質ってもんで
白虎隊にせよ、新撰組にせよ、西南戦争の西郷さんも、時の政府からみたら賊軍の話ですもんね。

桜のように咲いて、パッと散っていった・・。こういう話、日本人が好きなんだよなぁ。
しかし漫画の実際の舞台を目の当りにしてみると、いろいろ考えさせられることもありますな・・。

「日本人気質」

強い側面もあるけど、ある意味、危険な思想ともいえる。
昔ヒトラーが言ってた、「ゲルマン民族が世界一優秀な民族である」・・。あれと似てるよね・・。
大東亜戦争のときは、そんな日本人気質を軍部が利用してクレイジーな戦争に突入した・・。のかもしれない
神風特攻隊のルーツともいわれる「神風連の乱」

言わんや150年前の話

「いい、悪いは別として、そんなことがあったと伝えることが歴史やね。」

とみ先生から含蓄のあるお言葉
御馳走さまでした。

冷凍保存された歴史

2023.01.26
さすがに大寒ですな。

お~寒・・。ホースの水も昼頃までは出ません。
神社には、忘れ去られた歴史が冷凍保存されていることがありまして。。
阿波洲神社の浄水盤には、村人の記憶が刻み込まれています。
  この浄水盤
じつは貴重な歴史史跡だったのです。

向かって左側面には「明治十五年九月 平井伊左衛門」と読み取れます。
御門訴事件が明治2~3年なので、12年が経過して干支が一回りした頃、なにか思うこともあったのでしょうか・・。
神社に浄水盤を据えて名前を残したのですね。
この伊左衛門さん、奥様の志賀さんと新政府の県側の役人から拷問をうけたそうで。後遺症も残るほどの厳しいものであったそうで・・。
よくぞ生き延びました。

上保谷新田や周辺の村々でも、多数の犠牲者がでたそうです。

このような大事件となった「御門訴事件」
品川県による新しい社倉制度は僅か2年で廃止。
武蔵野新田の土地の特性や実状に合わなかったんですね。
佐賀から派遣された古賀一平知事は、失脚して佐賀に戻されたそうで・・。
社倉政策は明治新政府のあきらかな失政でした。


右側面は「世話人 平井週作 櫻井峯吉 保谷長太郎 内藤新宿石工 村松米吉」と読み取れます。
平井週作さん、幼名は虎之介という名前でして、関前新田の井口庄司さんと御門訴リーダーツートップの一人。
約500人以上の農民を率いて田無の八反歩から日本橋の浜町までデモ行進をしたわけだから
考えられない、凄いエネルギー!
裏面には当時の村人の名前が刻み込まれています。
下田、保谷、櫻井、中村、岩崎、都築、名古屋、平井、金子、秋元など35名の名前が見えますね。これらの姓は上保谷村の姓と一致していて、親村と新田の関係を示す明治初期の貴重な一史料である。
あの人の先祖かなぁ、この人の先祖かな・・。と思いを馳せて眺めます。


明治初期の、約150年前ころは全国各地でハレーションのように幕政時代の十倍以上の一揆が勃発していました。

「御門訴」は一揆とは違って暴動を伴わないもので、苦しさ故に品川県庁の門前まで訴えにいったわけですが、佐賀から派遣された古賀定雄知事は武力で鎮圧するとともに首謀者を投獄したそうです。

江戸から明治に移行した時代に武蔵野新田一帯の農民を苦しませることになった明治新政府の社倉制度。
それに対して農民たちが立ち上がった!
武器を使わない訴え「門訴」

その時代に生きた人々の勢いってすごいよね。

農民たち勇気の歴史
阿波洲神社にも冷凍保存されています。

150年の時を超えて・・。

しかしこの浄水盤、2tぐらいはある。
クレーンもトラックもない、自転車すら無い時代、運搬して据え付けるなんて

さぞ大変だったことでしょう。

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