平井さんぽ

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大泉堀ウォーク

2022.05.07
全国の暗渠ファンの皆さん、こんにちは!

 新緑まばゆい季節

お散歩しましょ! 緑やお花は私たちにたくさんのことをもたらしてくれます。
ここ2年、西東京市は暗渠だらけだ、ということを知りました。そして暗渠さんぽは面白い!
そんなコロナ渦でした。

お仲間に誘われて、行ってきました。
「大泉堀ウォーク」
駅前の高層ビルと農家の納屋の土壁の風景とか

ふだんは車で通りすぎてしまう道も、さんぽしながら見回していると面白い発見もあるものです。
AM9:00 ひばりヶ丘南口に集合!
まずはじめに、郷土史研究家の滝島俊さんから大泉堀の源流だったと思われる場所の説明がありました。

この辺は又六地下水堆という大きな水堆の上にあたるエリアで、大雨の時そこから流れができて川になっていたそう。
下保谷のシマッポと呼ばれていたそうです。
現在確認できる暗渠開始部始点にたどり着く
保谷志木線の踏切のあたりである。 振り返るとひばりヶ丘のビルがランドマークのようである。
ところどころグレーチング部分から水の流れを見たり音を聞いたり。
べつに倒れているわけではない。
スマホ落っことさない様、気をつけましょうね


路傍には、ときより南妙法蓮華経の題目の石碑が現れます。
天神社と福泉寺、両方にも建ててある題目の石碑は路傍にも三基が現存しており、下保谷村の日蓮宗教圏の様相を如実に伝えています。
このへん来ると、樹林も多くて、どこかなにか空気感の違いを感じます。


天神社に到着 建築の細部にも彫刻が施され、漆喰にも高い左官技術が覗えます。
かつて天神社は「番神様」(バンジンサマ)と呼ばれていました。

創建は天正期(推定)とされ、明治元年(1868年)の神仏分離令により祭神を三十番神のなかの一柱である菅原道真に改めて現在に至っています。
狛犬かっこよいです。

河岸段丘の痕跡を見ることができます。

武蔵野台地の平野にはところどころ水が湧いていて、細い支流が少しずつ合流して東の方に流れて、いずれ大河となり東京湾へ向かうのですね。
宮ノ脇川が大泉堀に合流します。
大泉堀もいくつかの小川が流入して、白子川に注ぎ込んでいたようです。
大きな屋敷林を眺めて一息ついて
暗渠を覗くときれいな水の流れに癒やされます。

大泉堀ウォーク その2

2022.05.06
 家でじっとしていないで町へ繰り出しましょ
歩いていると不思議と良い考えとか浮かんでくるものです。

今回の暗渠ウォーク、気候にも恵まれました。
オオムラサキツツジが満開
招霊木(オガタマノキ)

バナナの香りを漂わせます。
霊を招く木なんて・・。なんか出そうですね。
さらに一行は暗渠を突き進みます。


やはり文明文化は川沿いに伝わるのですね。

白子川周辺地域には川と共に歩んだ、ぶ厚い歴史があるようです。
法華経の教線が中世後期に白子川を遡り教えを広めた痕跡があり
このへんは日蓮宗教圏でして日蓮聖人が巡礼に訪れたという話もある。


保谷山福泉寺を訪れました。
和尚様に案内されて、特別に三十番神を見学することができました。
写真は西東京市webから転載させていただきました。
Copyright(c)Nisitoukyo city.All raight reserved.

明治政府に焼却処分を命じられた三十番神は、住民が密かにこっそり持ち出して福泉寺に安置して現在に至っている。

西東京市指定30号の文化財である。

先人の苦闘が伝わってくるようで下保谷村における江戸末期から明治、そして現在に至る、地域の信仰を物語る貴重な歴史遺産だと思いました。
和尚さまからは番神様にまつわるお話、人々がこの地に住み始めて800年以上の歴史があることなど貴重なお話をお聞きできました。

文化材を守ることは大変なことなんだなぁ・・。と改めて思います。
福泉寺の御住職には感謝いたします。
ありがとうございました。


そこから一行はコンビニで休憩~。
ガーデニングの素晴らしいコンビニでしばし休息。
バラが咲き誇っていました。
大泉第4小学校付近は竹の子憩いの森公園のほうへ迂回しなければなりません。
大泉方面に近づくと暗渠も緑道として整備された感じになります。

白子川接続部に到着~。
本流の水はきれいですね。

あれほど流れていた大泉堀、最期の吹き出し口からはチョロチョロ出ているぐらいでした。
水は・・。?どこに行ってしまったのか?
でも耳をすますと吹き出し口から水流の音が聞こえるね。
どこかに導水しているのかもね・・。

さらに整備された緑道を下っていくと小泉牧場が現れます。
23区内に唯一残る酪農牧場を見学 すぐそばの東京ワイナリーで清瀬のシャルドネで一杯。
キリッとして爽やかなお味でした。
保谷駅方向に戻りながら妙福寺を見学
大泉地区の日蓮宗の本寺で格式高いお寺です。
なかなか見応えあるお寺です。桜の季節にまた来てみたい


保谷駅方向へ帰る途中、大きな沢庵樽を飾っている農園を発見。 このへん練馬大根ですもんね。
沢庵石らしき石垣とかも時折見かけます。

保谷駅のバルで打ち上げ打ち上げ
クラフトビールで乾杯!
10キロ歩いて、ほどよく疲れてからの一杯は体に染み渡ったねぇ。
ほろ酔いの帰路で見た東伏見坂下の夕焼け
良い夕暮。

日が長くなったなあ

約25000歩
さんざん歩き廻って疲れたので今夜はぐっすり寝れそうです。


追記
で、はじめ。ヤギベの中村君に暗渠ウォークのことを聞いて「それは面白くないと思う・・。たぶん流行んないよ。」とか言ってた私ですけど
行ってみたら意外と面白くて・・。

気がつけば半世紀近く地元に住んでて、いいオッサンになってたけど、通ったことない道とか、景色とか、初めて聞く話とか、いろいろ発見があってね。中村君は「よかった探し」とか言ってたっけ。
それからというもの、水路と旧道とか気になって気になって(笑)

とりあえず、次回の町ブラ企画を楽しみにしている自分がいたりします。

宮崎熊本いってきたさ

2022.04.30
 母上もついに免許返納~ってことで
買い物や家族の送迎などいろいろ助かりました。
感謝しております。

そんなわけで乗らなくなったマーチ、九州にいる長女が乗りたい!との希望で宮崎まで届けることにした。
陸送便で車を配送することもできたが、旅がてら、カーフェリーで届けることにした。

モータースで点検整備、ヘッドランプはハロゲンに取り替えたから視界くっきりである。
神戸発なので深夜に西東京からひた走る、神戸までも結構距離あるね。

出発まで時間もあったので神戸の町を散策。中華街もあるから異国情緒がある。
まだ時間もあったので兵庫県立美術館も寄ってみる。安藤忠雄さんの建築、造形美もすばらしい。
古代エジプト展、見応えありました。

神戸から出航!フェリーで12時間、一人酒なんかしながら一晩過ごし、大浴場もあって快適で、船旅も良いものだ。

長女とは久しぶりの再会である。
まぁラインもあるから離れてる感じもしないけどね。。

元気そうでなにより
とりあえず地元で有名なチキン南蛮で昼食。
美味しかったけど、量が多い。でも店主の心意気は伝わってくるものがある。
娘とは日南海岸、青島神社あたりを散歩して、お昼を食べてお別れ。どうぞご無事で元気にやってくだされ。

そこから高千穂に向かう。
神が降臨しそうな美しい渓谷である。

阿蘇の温泉宿に向かう。
雄大な景色。
心が広がった。 ここしばらく、あんな雄大なとこ、行ってないもん。

世界が平和になったら、またあちこち行きたいなぁ。 東京に帰ってきてから噴火警戒レベル3に引き上げられたと聞いた。
いゃ~雄大だね。九州
貸し切り風呂の温泉宿も良かったね。
阿蘇周辺はとにかく水がきれい。湧水地があちこちあるのでペットボトルに汲んで飲みながらドライブ。

天草へ向かう。

道中、粟嶋神社(あわしまじんじゃ)を2カ所も発見したので立ち寄って参拝してきた。
やはり、アワシマサマは女性の守り神のようである。
ミニ鳥居を潜ると御利益があるそうで・・。
天草に着く。小さな島々が沖合にみえて風光明媚なところでした。
キリシタン文化遺産の島々は美しい。
やはり歴史のある土地は浪漫があって面白いですね。
あちこちにキリシタンの痕跡、遺構が残っていました。 崎津教会は畳のお座敷の教会であった。
その晩は下田温泉に宿泊
海の幸をたらふく味わいました。
たまり醤油と地元で採れた鯛などはとても相性がよく美味しかったです。 あっさりとして旨味のある鯛に、少しだけ、たまり醤油をつけるとコクがでて口の中でマッチングします。
ちょっとだけね。

日本酒は正月ぐらいしか飲まないので、皆さん日頃は米焼酎だそうだ。
気温も高いから保存の関係だろうか・・。
翌朝は
イルカウォッチング!
天草はこんな楽しみ方もある。
船に群れで寄ってくる。天然のイルカたちは一体なにをしているのか・・。餌をやる訳でもないのに。
犬のようにじゃれてくる。感動した。

最期に温泉に入ってきた。
九州は温泉も素晴らしいですね。

駆け足の旅でしたが、またこんど一週間ぐらいのんびり廻り鯛

長女も22才、おめで鯛ね。
九州は道路が良いからスピード出やすいから
どうぞ安全運転でお気をつけなさいまし~

アワシマ・・。という響き

2022.01.01
今年もよろしくお願いいたします。

昨年、阿波洲神社でクラシックカーの撮影会があった時の写真です。

市内では最も古い建築物である阿波洲神社本殿とクラシックカーがお似合いですね。
 平井園の隣には、なぜか昔から阿波洲神社(アワシマジンジャ)があるわけで。
この神社の由来、そして近隣のアワシマも調べてみました。
 西東京市教育委員会の説明板によると、阿波洲神社は宝暦二年(1752)に粟嶋明神として勧請された。(別当寺「寶晃院文書」)
絵図を見てみると・・。大日堂、国香神社、屠殺場など、当時の状況が描かれていますね。

江戸中期に明確な創立年次を持つ、この神社は享保九年(1724)から始まる武蔵野新田の一つ、上保谷新田の鎮守神として祀られた。
粟嶋明神が阿波洲神社に代えたのは明治以降であるが、祭神に変更はありません・・。とのこと

 紀伊の国(和歌山)加太浦の淡島明神が総社というのだから一度訪れてみたいものである。


昨年、近辺のアワシマにも行ってみました。

●淡島堂(アワシマドウ)(森厳寺内)(世田谷区代沢3-27-1)
下北沢駅にほど近い小高い丘の上にありました。
女人講中という石碑、針供養の碑がありました。
お灸が有名らしい・・。
江戸中で評判のなり大変賑わっていたそうで。

その名残が、渋谷から経堂をつなぐ
「淡島通り」
現在はオシャレなショップやカフェが立ち並ぶストリートとなっています。


●粟島神社(アワシマジンジャ)(豊島区要町2-14-4)
神社内の石碑によると、水の神様の特徴があり、雨乞祈祷や五穀豊穣など地元民に親しまれてきたようである。
池があり、鯉が泳いでいました。かつては清水の噴出する静謐の地であったそうです。

この神社の近くには千川上水が流れていました。これは阿波洲神社と共通する特徴。
千川上水開削と何か関連があるのかもしれませんね・・。


●淡島堂(浅草寺内)(台東区浅草2-3-1)
2月8日の針供養会には大きな豆腐に使い終えた裁縫針がたくさん供養されていた。
※読売新聞2017・2/9より転載

淡島明神は女性の守り神として信仰を集め、江戸中期には「淡島の願人」と呼ばれる人々が、江戸市中で婦女子に淡島明神の信仰をといてまわっていた。

↓ちょっと見づらいけど、資料を表にして比較してみたので、拡大したりスマホを横にしたりしてご覧ください。
年代的に比較して近いものもある。
現在、この淡島さまをお祭りしている神社は全国に多数あり、お寺系では淡島堂である。

 もし仮に、千川上水沿いに文化伝来があったとして・・。

上保谷新田の鎮守神として祀られた粟嶋明神が浅草寺淡島堂のオマージュである。という仮説は大いに考えられる話ではある。

それか・・。「淡島の願人」といわれた方々が巡礼にいらしたか?
淡島願人は女性に代わって、加田の淡島神社に代参したそうである。

昔の人々は今と比べ物にならないくらい健脚だった・・。といわれるが、いくらなんでも皆が和歌山の加田浦まで参拝に行ったとは思えない。

だからねぇ~
千川上水からの贈り物・・。なんて言うとロマンティックなのかもね。


阿波洲神社となったのは明治以降で、それまでは粟嶋明神であったわけで、なぜ改名したのか、あの「阿波洲」になったかを知る人は居ないし、これもまた謎である。
新町の氏子の先輩方に聞いてみると「あて字」じゃねぇのか・・?という話もよく聞きます。

納得できなく・・。だいいち、阿波っていうと阿波踊りで有名な徳島のことで、和歌山とは地理的に近いが関連もなさそう。
『保谷市史通史編3近代史』177pにはこのようなことが書いてありました。
抜粋しますと・・。

「阿州」つまり藍の特産で知られた徳島の製法をおしえ・・。と書かれていてる。

何か関連があるのかな?・・・と、私は考えました。

製茶が盛んなころ、保谷に製茶伝習所がありました、製藍についても同じく伝習所があり、生徒として下保谷の方々とも交流があったようです。
もしかしたら、そこで「阿波洲」という発想につながるヒントを得たのかもしれません。
↑今も農家の「くね」に茶の木が植わっていているのは、土の飛散防止の目的もありますが、お茶を自家栽培していた頃の名残です。

しかしながら、古文書などの文献もないので、はっきりしたことはわかりません。古老から聞いた話では、製茶が盛んなころ、古文書などに使われていた和紙を製茶の時に乾燥させるための焙炉に使って燃やしてしまった。だからなにも古文書がないのだ・・。
と聞きました。

真実は藪のなかって感じ。。

以上、調べたことを少しだけ紹介したのですが・・。 ただ、私は神社の研究家ではありませんので間違いもあるかもしれません。

まぁなにはともあれ
創建270年
現在は初詣や盆踊りなどに地元のたくさんの方々が訪れるわけで。
素朴な神社ならではの良さってありますよね。清々します。

今年も皆様に良い年でありますように〇

撃剣家の巻

2021.10.02
「撃剣家」・・。という名のインパクト

  芝久保墓地には並木綱五郎の墓があります。
北辰一刀流の剣豪 並木胤繁は文政8年(1825年)に田無村で生まれました。
病をへて46才で亡くなりますが、十周己の明治14年(1881年)に門下生39名がお墓を建立しました。
西東京市指定16号の文化財である。

『多摩のあゆみ 創刊号』の村田朝雄さんの研究ノートによりますと・・。

「撃剣家並木先生墓」の上段台石に39名の門人の姓名が彫られているが、平井週作はその筆頭幹事になっている。
平井週作の幼名は寅之助であり、北辰一刀流の創始者 千葉周作から、その結びつきがある週作に改名しても恥じない剣の達人であったと思われる。
門人のなかに下田半兵衛、賀陽済の名が見える。週作は筆頭幹事であるから、北辰一刀流の相当の使い手であることがわかる。。

とのこと・・。


凄い男がいたもんだなぁ・・。

ちなみにウチは週作さんの末裔ではありませんけどね・・。微妙に



『田無市史第3巻通史偏』では

幕末期になると、村の自衛欲求とも相まって、農村部で武芸の稽古を行う者も増えた。幕末の田無にも剣術家がいて道場を開いている。
並木は北辰一刀流を江戸の千葉道場で学び、その奥殿を許され帰郷し、並木胤繁を名乗ったという。
元治、慶応の頃には田無に道場をもち、近郷からも門人がふえた。

と記されています。
墓石に刻まれた門人名を見ると、田無、関前、西久保、境などを中心に近郷の村々の名前が見えます。


尚、北辰一刀流の有名な方は坂本竜馬がいます。
余談であるが、竜馬が北辰一刀流桶町千葉道場主の二女 千葉佐奈と恋仲であったことは有名な話である。


2020年頃お聴きした新町の古老 桜井勇二さん91才の話では、新選組局長の近藤勇も出稽古に来ていて、平井週作たちと稽古をやっていたと聞きました・・。

マジっすか・・。ということで

少し調べてみました。 武蔵野ふるさと歴史館の歴史探訪講座では、境村の『秋本家文書』にあった近藤勇からの書簡などを参照しながら、幕末期に多摩地域の農民層が剣術を身につけ、村を自衛したことや剣術をめぐる交流が盛んだったことなどを研究した講演を行ったようです。


近藤勇も調布だし・・。歩いて来れない距離ではないからね。ありうる話だな。

なかには「所用で都合がつかず、欠席する。」などの文章もあるそうで
リアルではある。

流派は異なっているが、他流派との出稽古で近所まで来ていたってことはありえる・・。
てか。境村、関前村あたりまでは来ていたようである。間違いなく。

もしかしたら、このへん歩いて芝久保辺りまで来ていたかも・・。


ほんとだったら嬉しいな。

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