平井さんぽ

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撃剣家の巻

2021.10.02
「撃剣家」・・。という名のインパクト

  芝久保墓地には並木綱五郎の墓があります。
北辰一刀流の剣豪 並木胤繁は文政8年(1825年)に田無村で生まれました。
病をへて46才で亡くなりますが、十周己の明治14年(1881年)に門下生39名がお墓を建立しました。
西東京市指定16号の文化財である。

『多摩のあゆみ 創刊号』の村田朝雄さんの研究ノートによりますと・・。

「撃剣家並木先生墓」の上段台石に39名の門人の姓名が彫られているが、平井週作はその筆頭幹事になっている。
平井週作の幼名は寅之助であり、北辰一刀流の創始者 千葉周作から、その結びつきがある週作に改名しても恥じない剣の達人であったと思われる。
門人のなかに下田半兵衛、賀陽済の名が見える。週作は筆頭幹事であるから、北辰一刀流の相当の使い手であることがわかる。。

とのこと・・。


凄い男がいたもんだなぁ・・。

ちなみにウチは週作さんの末裔ではありませんけどね・・。微妙に



『田無市史第3巻通史偏』では

幕末期になると、村の自衛欲求とも相まって、農村部で武芸の稽古を行う者も増えた。幕末の田無にも剣術家がいて道場を開いている。
並木は北辰一刀流を江戸の千葉道場で学び、その奥殿を許され帰郷し、並木胤繁を名乗ったという。
元治、慶応の頃には田無に道場をもち、近郷からも門人がふえた。

と記されています。
墓石に刻まれた門人名を見ると、田無、関前、西久保、境などを中心に近郷の村々の名前が見えます。


尚、北辰一刀流の有名な方は坂本竜馬がいます。
余談であるが、竜馬が北辰一刀流桶町千葉道場主の二女 千葉佐奈と恋仲であったことは有名な話である。


2020年頃お聴きした新町の古老 桜井勇二さん91才の話では、新撰組局長の近藤勇も出稽古に来ていて、平井週作たちと稽古をやっていたと聞きました・・。

マジっすか・・。ということで

少し調べてみました。 武蔵野ふるさと歴史館の歴史探訪講座では、境村の『秋本家文書』にあった近藤勇からの書簡などを参照しながら、幕末期に多摩地域の農民層が剣術を身につけ、村を自衛したことや剣術をめぐる交流が盛んだったことなどを研究した講演を行ったようです。


近藤勇も調布だし・・。歩いて来れない距離ではないからね。ありうる話だな。

なかには「所用で都合がつかず、欠席する。」などの文章もあるそうで
リアルではある。

流派は異なっているが、他流派との出稽古で近所まで来ていたってことはありえる・・。
てか。境村、関前村あたりまでは来ていたようである。間違いなく。

もしかしたら、このへん歩いて芝久保辺りまで来ていたかも・・。


ほんとだったら嬉しいな。