市内では最も古い建築物である阿波洲神社本殿とクラシックカーがお似合いですね。

この神社の由来、そして近隣のアワシマも調べてみました。


江戸中期に明確な創立年次を持つ、この神社は享保九年(1724)から始まる武蔵野新田の一つ、上保谷新田の鎮守神として祀られた。
粟嶋明神が阿波洲神社に代えたのは明治以降であるが、祭神に変更はありません・・。とのこと
紀伊の国(和歌山)加太浦の淡島明神が総社である。
昨年、近辺のアワシマにも行ってみました。
●淡島堂(アワシマドウ)(森厳寺内)(世田谷区代沢3-27-1)




江戸中で評判のなり大変賑わっていたそうで。
その名残が、渋谷から経堂をつなぐ
「淡島通り」
現在はオシャレなショップやカフェが立ち並ぶストリートとなっています。
●淡島社(アワシマシャ)(神奈川県都築区折本町1458)



●粟島神社(アワシマジンジャ)(豊島区要町2-14-4)


この神社の近くには千川上水が流れていました。これは阿波洲神社と共通する特徴。
千川上水開削と何か関連があるのかもしれませんね・・。
●淡島堂(浅草寺内)(台東区浅草2-3-1)



淡島明神は女性の守り神として信仰を集め、江戸中期には「淡島の願人」と呼ばれる人々が、江戸市中で婦女子に淡島明神の信仰をといてまわっていた。
↓ちょっと見づらいけど、資料を表にして比較してみたので、拡大したりスマホを横にしたりしてご覧ください。

現在、この淡島さまをお祭りしている神社は全国に多数あり、お寺系では淡島堂である。
もし仮に、千川上水沿いに文化伝来があったとして・・。
上保谷新田の鎮守神として祀られた粟嶋明神が浅草寺淡島堂のオマージュである。という仮説は大いに考えられる話ではある。
それか・・。「淡島の願人」といわれた方々が巡礼にいらしたか?

昔の人々は今と比べ物にならないくらい健脚だった・・。といわれるが、いくらなんでも皆が和歌山の加田浦まで参拝に行ったとは思えない。
だからねぇ~
千川上水からの贈り物・・。なんて言うとロマンティックなのかもね。
阿波洲神社となったのは明治以降で、それまでは粟嶋明神であったわけで、なぜ改名したのか、あの「阿波洲」になったかを知る人は居ないし、これもまた謎である。
新町の氏子の先輩方に聞いてみると「あて字」じゃねぇのか・・?という話もよく聞きます。
納得できなく・・。だいいち、阿波っていうと阿波踊りで有名な徳島のことで、和歌山とは地理的に近いが関連もなさそう。

抜粋しますと・・。
「阿州」つまり藍の特産で知られた徳島の製法をおしえ・・。と書かれていてる。
何か関連があるのかな?・・・と、私は考えました。
製茶が盛んなころ、保谷に製茶伝習所がありました、製藍についても同じく伝習所があり、生徒として下保谷の方々とも交流があったようです。
もしかしたら、そこで「阿波洲」という発想につながるヒントを得たのかもしれません。

しかしながら、古文書などの文献もないので、はっきりしたことはわかりません。古老から聞いた話では、製茶が盛んなころ、古文書などに使われていた和紙を製茶の時に乾燥させるための焙炉に使って燃やしてしまった。だからなにも古文書がないのだ・・。
と聞きました。
真実は藪のなかって感じ。。
以上、調べたことを少しだけ紹介したのですが・・。 ただ、私は神社の研究家ではありませんので間違いもあるかもしれません。
まぁなにはともあれ
創建270年
現在は初詣や盆踊りなどに地元のたくさんの方々が訪れるわけで。

今年も皆様に良い年でありますように〇