平井さんぽ

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冷凍保存された歴史

2023.01.26
 さすがに大寒ですな。

お~寒・・。ホースの水も昼頃までは出ません。
神社には、忘れ去られた歴史が冷凍保存されていることがありまして。。
阿波洲神社の浄水盤には、村人の記憶が刻み込まれています。
この浄水盤
じつは貴重な歴史史跡だったんですね。

向かって左側面には「明治十五年九月 平井伊左衛門」と読み取れます。
御門訴事件が明治2~3年なので、12年が経過して干支が一回りした頃、なにか思うこともあったのでしょうか・・。
神社に浄水盤を据えて名前を残したのですね。
この伊左衛門さん、奥様の志賀さんと新政府の県側の役人から拷問をうけたそうで。後遺症も残るほどの厳しいものであったそうで・・。
よくぞ生き延びました。


このような大事件となった「御門訴事件」
品川県による新しい社倉制度は僅か2年で廃止。
武蔵野新田の土地の特性や実状に合わなかったんですね。
佐賀から派遣された古賀知事は、佐賀に戻されたそうで・・。
社倉政策は明治新政府のあきらかな失政でした。

上保谷新田や周辺の村々でも多数の犠牲者がでたそうです。

右側面は「世話人 平井週作 櫻井峯吉 保谷長太郎 内藤新宿石工 村松米吉」と読み取れます。
平井週作さん、幼名は虎之介という名前でして、関前新田の井口庄司さんと御門訴リーダーツートップの一人。
約500人以上の農民を率いて田無の八反歩から日本橋の浜町までデモ行進をしたわけだから
考えられない、凄いエネルギー!
裏面には当時の村人の名前が刻み込まれています。
下田、保谷、櫻井、中村、岩崎、都築、名古屋、平井、金子、秋元など35名の名前が見えますね。これらの姓は上保谷村の姓と一致していて、親村と新田の関係を示す明治初期の貴重な一史料である。
あの人の先祖かなぁ、この人の先祖かな・・。と思いを馳せて眺めます。


江戸末期から明治維新の、約150年前ころは時代の変わり目で全国各地でハレーションのようなことが起こりました。新撰組や坂本龍馬とか近代史に出てくる有名人も多いですよね。

このへんの村々で起こった御門訴事件も、その一つだろうし、江戸から明治に移行した時代に武蔵野新田一帯の農民を苦しませることになった明治新政府の社倉制度。
それに対して農民たちが立ち上がった!
武器を使わない訴え「門訴」

農民たちの歴史っていうところが面白いところ
阿波洲神社にも歴史が冷凍保存されています。

タイムスリップして当時の方々が後世に何かを語っている様で・・。
しかしこの浄水盤、2tぐらいありそう・・。
クレーンもトラックもない、自転車すら無い時代、運搬して据え付けるなんて

さぞ大変だったことでしょう。

秋の町ブラ 東伏見しゅうへん

2022.11.23
 すっかり秋も深まってきました。

いまにも降り出しそうな鉛色の空、イチョウの黄葉に温かみを感じます。
田無地方史研究会のフィールドワークに参加してきました。

まずは、柳沢公民館集合でミーティング
中島飛行機武蔵野製作所を狙って落とされた爆弾の破片も展示されている。
「しじゅうから第二公園」付近は長崎に落とされたパンプキン爆弾の模擬爆弾が着弾した場所である。
ジャガイモ畑にカボチャが落ちてきたってわけね・・。

この看板だけって・・。ちょっと寂しいね
東伏見神社で参拝

この地に、昭和四年に落慶(らっけい)されたそうで、現在93才、もうじき100周年。

中島飛行機からも大通り一本で来れるので、まるで中島飛行機製作所のための神社のようである。
昭和20年には終戦しているわけで・・。
裏山の鳥居は何本あるのでしょうか?
慰霊碑があり、殉職された方々の名前を刻んでいる。
やはり東伏見神社は中島飛行機製作所との関連が濃いようである。

その後、中島飛行機の工場があった、武蔵野中央公園へ
秋のイベント真っ盛り、平和です。
2016年に発掘された地下道の床の残骸。

約80年前、この地に軍事工場があり、「ターゲットNo.357」という符号がつけられ、たくさんの爆弾が降り注いだことは忘れてはいけませんね。
北へ移動。千川上水だって、江戸時代の歴史的遺構である。 途中で上保谷という表札を発見!
もともとは東伏見という住所はなかったのですね。
坂上付近の大日如来墓石

ここの旧地名はかつて上保谷村下野谷でした。

彫りがあっさりとしてよいですね。
小祠の中で保存状態が良い。
国指定の縄文時代の遺跡である。
VRで当時の状況を垣間見る事ができます。

しかし・・
下野谷遺跡はなぜ、石神井川の北傾斜の場所だったのだろうか?
日当たりの良い南傾斜のほうが良さそうな気もするが・・。

私の・・。誰に聞いたわけでもなく、なに調べたわけでもなく、ただの直感なんですが

東伏見坂下付近の青梅街道あたりにも一筋、川があったのではないかと思うんです。

それであれば河岸段丘の中島みたいな感じで下野谷遺跡は南にも北にも水場がある好立地だったのかもしれない・・。
天気怪ぶまれましたが、一日なんとかもって
最後は暗雲の切れ間から太陽が降りそそぎました。

折しもウクライナではミサイルが降り注いでいるわけで

ふりそそぐのは太陽だけで充分だ。

あわしまさん

2022.09.22
3連休、紀伊半島、和歌山へ行ってきた。

結婚25周年記念というところだろうか・・。

かねてから気になっていた加田の淡嶋神社に参拝してきました。
全国の淡嶋、粟島、の総社で
1700年受け継がれた伝統があるそうです。

平井園の隣にも、なぜか昔から阿波洲神社(アワシマ神社)があるわけで、そのルーツを探るべく紀伊の国まで飛んできた。

関空から淡嶋神社まで車で1時間ぐらいですかね。 台風も近づいていたこともありますが、海が泡でシュワシュワしていて、遠くには神々の島が・・。
まさにアワシマ!

「あわしまさん」のルーツは海の神様でもあったんだねぇ・・。
ご祭神は小彦名命(スクナヒコノミコト)
医薬の神様で、とくに女性の病気回復や安産、子授けなどに霊験あらたかといわれていて、裁縫、医術、製薬などを教えたり温泉を開いたり多くのことをなさったそうな・・。


針供養の祠
女神 頗梨采女(ハリサイニョ)も祭神である。 ということで二月八日は針供養の日
女人の病気平癒や安産、子授けなど医薬の神様、航海安全の守護神として知られています。

日本の長い歴史の上に今なお生き続けている、「雛まつり」も淡嶋神社が大元なんですね。
たくさんの美しい神話が語り継がれています。
境内には所狭しと、たくさんの人形が供養されています。
ちょっと怖いのですが・・。
美しさと恐怖って表裏一体なんですね。

結婚25周年
あと25年ぐらい・・。よろしくお願いいたしまーす。

御門訴事件 史跡巡りツアー

2022.09.09
 御門訴事件ってご存じですか?

「門訴」とは門前での武器を持たない訴え
「強訴」は一揆や打ちこわしなど暴力的な訴え
強訴はとても罪がおもかったそうです。

今から約150年前、この辺の上保谷新田を含む12ヵ村の農民たち数百名が県庁まで、苦しい実情を訴えに「門訴」に行きましたが、武力鎮圧され多数の負傷者がでました。


9月入ってだいぶ涼しくなったので
御門訴事件史跡巡りツアーを企画して自転車でフィールドワークいってきましたよー

まずは阿波洲神社集合からのスタート。
関前新田の井口庄司とともに御門訴リーダー、ツートップの一人、平井寅之助、のちの週作がかつて村の有力者であったころ、上保谷新田の方々で建てた社殿があります。
伝説の庭園「康楽園」にまつわる話もあったりして・・。。
その面影は、今はなにもなく・・。

現在は新町の鎮守様として五穀豊穣をお祈りしております。


招魂搭 事件から10年後の明治12年に建てられました。
御門訴事件との関係を示す記述は一切見られませんが、書き込まれている氏名から推測して犠牲者を鎮魂するために建てられたと考えられている。


倚鍤碑 井口家の犠牲者を慰霊するために建てられたそうです。 門訴のリーダーの一人として活躍して非業の死をとげた井口庄司の霊を慰める石碑でして
村に返還された資金によって建てられたという話もある。

このような大事件となった品川県の社倉制度は施行から、わずか2年の1871年(明治4年)に終わりました。 この間徴収された社倉積立金は1880年(明治13年)になってようやく村に返還されましたが、米の備蓄失敗(ネズミに食われる被害)や運用損などで約6割が損失してしまいました。

碑文は中島信行によって書かれています。この地が神奈川県になったときの県知事で自由民権運動家、初代衆議院議長、明治の名文家として名を残しています。

深大寺街道を北上して 馬頭観音文字搭を見学~
近所に馬捨て場があったようですね。


田無神社に立ち寄ります。

将軍山の石碑
田無神社の北参道の入り口には、かつて伝説の庭園「康楽園」の築山に据えられていた将軍山の石碑が安置されています。
裏には平井週作の名前も彫られていますが、なぜか巡り巡って田無神社に据えられています。
賀陽宮司には感謝ですね。


稗倉
田無村に入り、下田半兵衛さんの稗倉を見学

役人と農民の間に位置する立場の半兵衛さんは、この事件でも語りつくせぬ重要なポジションのお方。
御門訴事件にまつわる様々な話もあり、葛藤、苦悩があったことが想像できます。


その後、西東京市郷土資料室で御門訴コーナを見学


撃剣家 並木綱五郎の墓 
幕末は剣術をめぐる交流が盛んになり、村を自衛したそうです。
墓石に刻まれた門人名を見ると、田無、関前、西久保、境などを中心に近郷の村々の名前。 門人が広範囲から訪れていたことが窺える。


八反歩があったと思われる辺りを眺める。
庚申橋から、くぬぎ橋あたりと言われています。
なぜここに集結したのだろう?
500人とも700人とも言われていて

男どもの雄たけびが聞こえてくるようである。
今はサッカー部の声が轟いている。


小金井公園のコスモス畑を、時間がないのでピューっと通り過ぎます。
夏ももうすぐ終わりですね~


真蔵院到着~
新田のリーダーたちによる御門訴の会議が行われた、ゆかりの地である。
ご住職からは御門訴事件の一部始終をお話しいただきました。

川崎兵右衛門の功績もご説明いただきました。


その後、桜樹接種碑を見学
「さくら折るべからず」槐字道人(下田半兵衛富宅)
裏面は削られている箇所もあり、残念でしたね。どんな理由にせよ、文化財は大事にして欲しい


二本松
御門訴事件で捕縛された若者が赦されて村に帰ってきたときに記念に植えられたと言い伝えられている。 150年前といいますと新橋~横浜間で蒸気機関車が開通したころ
この辺の村々ではいったい何があったのでしょうか。
御門訴事件は明治から急速に発展する自由民権運動の先駆けになる民衆運動である・・。っていう人がいたけど、そりゃ言いすぎだよなぁ

むしろ、その前の段階の話だよね

苦しさ故、訴えに行った話であって・・。当時はまだ選挙権もないし、人権が無いような時代。そうするしかなかったんでしょう。

でも、150年前の人々が何を思い、いかに行動したのか・・。

この話から読み取れるポイントは多々あると思ってまして・・僕はね
人間模様とか・・。現代にも似たような、あるある話がありそうで


時代は明治に変わったころ
当時の県知事も必死だったんだと思うんです。
体制が江戸からゴロっと変わって、九州佐賀から来て、この辺の武蔵野新田の統治を命ぜられ、もしかしたら言葉もよく通じない状況だったかもしれません。それでも上からは成果を期待されて・・・。
武蔵野新田の土地の特性もよくわからないまま社倉米制度を施行くして、うまくいかなかったってことでしょう。

今回、この企画をするにあたり、いろいろ取材をして、気になる話を聞きました。
「戦前は御門訴のことはそれなりに伝えられてた・・。」らしいのです。
戦争(太平洋戦争) が近づくにつれて、お上に逆らった話ともとれる御門訴の話は緘口令によってタブー視されていったそうで、そんな空気になっていったそうで・・。


現在は、教育教材や郷土史研究、朗読劇などの分野で「御門訴事件」を後世に語り継ぐ活動が行われていますが、地域やそれぞれの立場で見方や解釈が異なっているのも事実です。
私は御門訴の話は、そんなに悪い話ではないと思っています。
それまでの江戸時代に多くあった一揆やぶち壊しと違った「非暴力の訴え」の話ですし、農民が結束した民衆運動であり、貴重な話なので、できるかぎり後世へ伝えていけたらと思っています。

郷土の歴史をしれば、面白い発見もあって、先人の苦労があって我々が生きているんだなぁと、思ったりして・・。


秋の一日、御門訴の史跡、自転車で廻ってみてはいかがでしょうか。

大泉堀ウォーク

2022.05.07
全国の暗渠ファンの皆さん、こんにちは!

 新緑まばゆい季節

お散歩しましょ! 緑やお花は私たちにたくさんのことをもたらしてくれます。
ここ2年、西東京市は暗渠だらけだ、ということを知りました。そして暗渠さんぽは面白い!
そんなコロナ渦でした。

お仲間に誘われて、行ってきました。
「大泉堀ウォーク」
駅前の高層ビルと農家の納屋の土壁の風景とか

ふだんは車で通りすぎてしまう道も、さんぽしながら見回していると面白い発見もあるものです。
AM9:00 ひばりヶ丘南口に集合!
まずはじめに、郷土史研究家の滝島俊さんから大泉堀の源流だったと思われる場所の説明がありました。

この辺は又六地下水堆という大きな水堆の上にあたるエリアで、大雨の時そこから流れができて川になっていたそう。
下保谷のシマッポと呼ばれていたそうです。
現在確認できる暗渠開始部始点にたどり着く
保谷志木線の踏切のあたりである。 振り返るとひばりヶ丘のビルがランドマークのようである。
ところどころグレーチング部分から水の流れを見たり音を聞いたり。
べつに倒れているわけではない。
スマホ落っことさない様、気をつけましょうね


路傍には、ときより南妙法蓮華経の題目の石碑が現れます。
天神社と福泉寺、両方にも建ててある題目の石碑は路傍にも三基が現存しており、下保谷村の日蓮宗教圏の様相を如実に伝えています。
このへん来ると、樹林も多くて、どこかなにか空気感の違いを感じます。


天神社に到着 建築の細部にも彫刻が施され、漆喰にも高い左官技術が覗えます。
かつて天神社は「番神様」(バンジンサマ)と呼ばれていました。

創建は天正期(推定)とされ、明治元年(1868年)の神仏分離令により祭神を三十番神のなかの一柱である菅原道真に改めて現在に至っています。
狛犬かっこよいです。

河岸段丘の痕跡を見ることができます。

武蔵野台地の平野にはところどころ水が湧いていて、細い支流が少しずつ合流して東の方に流れて、いずれ大河となり東京湾へ向かうのですね。
宮ノ脇川が大泉堀に合流します。
大泉堀もいくつかの小川が流入して、白子川に注ぎ込んでいたようです。
大きな屋敷林を眺めて一息ついて
暗渠を覗くときれいな水の流れに癒やされます。

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