平井さんぽ

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並木綱五郎 諸説ありまして・・。

2023.03.04
 橋場には、つい寄り道してしまう赤提灯がありまして、たまにはグッと呑みにいく訳ですが・・。。
「やきとりグッド」の店主 並木靜夫さんが
撃剣家 並木綱五郎の親類筋だと聞いたのは
2020年頃のことであった。
なにしろ、寺の過去帳にも時の政府の追求を怖れたのか、関係する記述がほとんど残ってなく先祖の言い伝えしかないそうで・・。

以下、並木綱五郎とごっちゃになるので、並木靜夫さんのことは「焼き鳥屋店主」と表記しますね。

芝久保墓地には並木綱五郎の墓があります。
NHK大河ドラマ『青天を衝け』でも渋沢栄一と田無保谷もそこそこは関係がありまして、並木綱五郎のお墓を訪れる方もいたので、焼き鳥屋店主はお墓の掃除を励んだそうです。
※画像は加工修正にて文字を浮かび上がらせています。「ユーモラスな字ですねぇ・・。隷書という書体だそうです。」

北辰一刀流の剣豪 並木胤繁は文政8年(1825年)に田無村で生まれました。
病をへて46才(明治4年)で亡くなりますが、十周己の(明治14年)に門下生39名がお墓を建立しました。

門人たちの友情、そして先生への恩義は忘れないのですね・・。
西東京市指定16号の文化財である。

幕末期になると、村の自衛欲求とも相まって、農村部で武芸の稽古を行う者も増えた。幕末の田無にも剣術家がいて道場を開いている。
並木は北辰一刀流を江戸の千葉道場で学び、その奥殿を許され帰郷し、並木胤繁を名乗ったという。
元治、慶応の頃には田無に道場をもち、近郷からも門人がふえたそうで
墓石に刻まれた門人名を見ると、田無、関前、西久保、境などを中心に近郷の村々の名前が読み取れます。。
平井週作は筆頭幹事で名前を刻んでいる。
明治3年(1870)の御門訴事件の時も、幕末期からの多摩地域の農民たちの武芸の交流があったので、たくさんの人々を集めることができたのかも知れませんね・・。
また、武術の心得があったのに、非暴力の、門前での訴え「門訴」を行った・・。と、なんとマナーの良いことでしょう。

皆、血気盛んな若い連中である
いったい誰の指導のもとで「門訴」という手段に踏み切ったのだろうか?

一揆が頻発していた時代、あえて行儀のよい門訴にとどまったあたり、武蔵野の農民には思想的な支柱がいた可能性があるのではないだろうか・・?

「農民たちに、こんなことができるわけがない!」
「徳川の浪人が、裏で農民たちを煽動しているのでは・・。」と、新政府側では最後まで噂されたそうだ。
「綱五郎は農民たちに武術を教えて、道場なんか開いているから暗殺されたんだ」・・。と子供のころ、祖父から聞かされていたそうです。
先祖からの言い伝えらしきことで・・。
「なんのこっちゃ?・・。」と当時は聞いていたが確かに言っていたそうです。

田無市史には並木綱五郎は明治4年に病をえて46歳でこの世を去った。とだけ書かれている

「いくら武芸を教えてくれた先生とはいえ、ここまでのお墓を造るだろうか?」

また、亡くなってすぐではなく、墓は明治14年、10回忌ということで建立したのも不自然で、仏教的に考えると13回忌でなにか行うのが普通ですもんね。

招魂搭(明治12年建立)at新町共同墓地

明治3年に御門訴事件が勃発して、平井週作(当時はまだ週作を名のっておらず虎之介)の逃亡は正確にはわかっていませんが約4年といわれ、逃亡中の明治4年に並木綱五郎先生は亡くなっている。
新政府組織からすれば、農民にまで武芸を教えているなんて、クーデターの元凶というか、並木綱五郎は非常に危険な存在であったには違いない。
週作は帰郷してしばらくしてから、亡き師匠のお墓建立の世話人をしたのではないだろうか・・。
浄水盤(明治15年建立)at阿波洲神社

いずれにせよ歴史には闇の部分はつきものでして、文献が燃やされてなかったり、真相は調べようもないことが多いです。
石碑の建立年が近かったり、共通人物が彫っていたりすると、ドキッとしますね。

現代の我々に無言でなにかを伝えようとしているのかもしれません。