疲れはてて・・。 「お昼に街道沿いのラーメンも近頃歳のせいか胸焼けもするし」
「深大寺そばでも、あっさり食べて帰るか・・。」ということにした。

国宝もあるし あちこち水が湧いてて
緑潤い素晴らしい



向かい合う感じで最上位の一番目立つところに設置されていた。

隣の石の風化具合を見ても分かりますよね・・。
石質も良くしっかりしているので、現在でもよく読み取れます。

あまりに偶然の発見であったので、興奮気味に、郷土史研究家の知り合いにも写真を送りまくってしまった・・。
郷土史研究家の滝島さんからは以下のメッセージをいただいた。↓
「お互い良いポジションを確保していますね。
相当額の寄進だったのでしょう。
田無の下田半兵衛さんは別格の名主なので分かりますが、伊左衛門がこの位置に名を刻んでいるのは驚きです。
元三大師堂が再建されたのは慶応3年(1867)ということから考えて、5代目平井伊左衛門・存知の寄進と思われます。
同じく半兵衛は富潤と思われます。
幕末の火災で類焼したので元三大師堂が再建されたのは155年前のことです。
伊左衛門・存知は、御門訴事件の時、拷問をうけた週作のお父さんです。」
以下、私↓
「どうして新田名主が欄干に名前を彫ることができたのでしょうか?
御門訴で農民が立ち上がり勝ち取った減額要求によって400の村々に恩恵があったとどこかで読みました、あくまで仮説ですが、誰かがこっそり義援金的なスポンサーをしたとか・・。?」
T氏↓
「大師堂が再建されたのは御門訴事件の3年前ですので、伊左衛門も水車などで金銭的に裕福であったと思われます。
御門訴事件後の社倉金の減額の恩恵をさずかって門訴にはいかなかった村々はラッキーだったということでしょう。」
私↓
「元三大師堂が先に再建されて後ほど欄干が制作されたということは考えられますか?」
などなど・・。貴重なご意見いただきました。
※ちなみに存知さんも週作さんも私の先祖ではありません。
しかし、どのような経緯で欄干に名前を刻めたか・・。
結局、真相はわかりませんでした。
ご存知の方いらっしゃったら情報を、是非教えていただきたい。
元三大師は厄除けの大師さまです。

よそ者が欄干の最上位に名前を刻むなんて恐れ多いことですね。
西東京市には「深大寺街道」という古道があります。江戸時代の近世では元三大師(がんさんたいし)を奉る深大寺までの参詣の道として一本道で行けたので、昔の方々もよく参っていたのでしょう・・。

元三大師につづく道、という大切な道であったのですね。

明治3年の御門訴事件の時、保谷、境、調布の農民たちも、大師通りをひた走って情報を伝達していたかも・・。と想像します。


どなたか欄干の謎、ご存知ないですか?