平井さんぽ

Blog

天神社と福泉寺(下保谷の歴史)

2020.09.11
 すっかり神社づいてしまって、あちこち散歩してます。

白子川源流からの橋のふもとにある大木
「井頭のやなぎ」・・・。です↓
荒川水系の白子川

練馬区東大泉の井頭公園から川の名は始まりますが、さらに上流をさかのぼると下保谷の大泉堀や西東京市保谷庁舎の裏辺りにも新川という支流があります。現在はコンクリ蓋の暗渠ですが、昔はひばりが丘の方や東大農場の敷地を貫いてその向こうからも流れていたそうで、大きな川ではないけれど、どこか、なにか・・。
空気感の違いを感じます。
地元神社めぐりも3話め。

天神社に行ってきました。
下保谷の文字が右から読むところなんかシブいよねぇ~。狛犬の細部にまで彫刻がほどこされているし・・。

この辺の集落は「荒屋敷」という土地の呼び名もあったそうで
江戸の初期、白子川の近くの荒れ地を開拓してできた集落なのだとか。 建築の細部も彫刻されていて漆喰にも高い左官技術がうかがえます。

やはり文明文化は川沿いに発展するのですね。

白子川周辺地域には川と共に歩んだ、ぶ厚い歴史があるようです。
法華経の教線が中世後期に白子川を遡り教えを広めた痕跡があり
このへんは日蓮宗教圏でして日蓮聖人が巡礼に訪れたという話もある。
坊ヶ谷戸墓地の日蓮像

かつて天神社は、日蓮宗の三十番神を祀り「番神様」(バンジンサマ)と呼ばれていた。
創建は天正期(推定)とされ、明治元年(1868年)に出された神仏分離令により祭神を三十番神の中の一柱である菅原道真に改めて今に至っています。
梅の紋様は天満宮の証。
風格あるねぇ~
福泉寺にも行って「三十番神」拝見させていただきました。
Copyright(c)Nisitoukyo city.All raight reserved.

明治政府に焼却処分を命ぜられられた三十番神は住民が密かに、こっそり持ち出して福泉寺に安置して現在に至っている。

今では市指定30号の文化財

先人の苦闘が伝わってくるようで下保谷村における江戸末期から明治ごろ、そして現在までの地域の信仰を物語る貴重な歴史遺産だと思いました。
御住職。とっても気さくな方でいろいろお話聞かせいただきました。

白子川流域には室町時代中頃から人が住み始めた。その根拠は1461年~1470年頃にかけての題目盤碑が川沿いに多数出土している。

つまり・・。文化的影響を与えた川であるとのこと。

福泉寺と天神社、両方で建ててある下保谷村の題目の石碑は路傍にも三基が現存しており、日蓮宗教圏の様相を如実に伝えている。
語りつくせぬほどの奥深い話がある天神社と福泉寺
白子川周辺に伝わる下保谷の歴史


しかしまぁ今年の夏は暑かった。

神社に訪れると鎮守の森が涼しくて涼しくて・・。
思えば土のうえを歩くことも都会じゃ少なくなりましたねぇ・・。

地元の歴史とか知って、参拝すると、より一層深い清らかな気持ちになります。


いまさらですが、早くコロナが収まるように祈願してきました。

地元神社めぐり(阿波洲神社)

2020.08.30
 旧保谷エリアには古くからの神社がありまして・・。

その一つが阿波洲神社。


平井園のとなりに、なぜか昔からあります。

私が幼少の頃は近所の子供たちとの遊び場でもあった。
鬼ごっこをしたり、ドングリをパチンコで飛ばしたり・・日が暮れるまで遊んだ思い出があります。
むかしからお宮と呼んでいて、

もちろん初詣は阿波洲神社だし、なにかっていうとお宮にお参りいたします。
本殿は西東京市内ではもっとも古い建造物になるそうです。


恒例の盆踊りも中止、今年はねぇ・・。
旅行にも行けないので時間もあったし
いろいろ調べてみました。

『保谷の石仏と石塔二』によりますと
幕府の新田開発は享保九年(1724)からいっせいに始まり、今の新町、旧上保谷新田もそのころ開発が進み、江戸中期の宝暦二年(1752)粟嶋神社が創建したようである。粟島は淡島とも書き、今は阿波洲と書く。
阿波州と表記が変ったのは明治以降である。

 本宮は紀伊国(和歌山県)加太浦に鎮座している加太神社である。もともと婦人病、安産、縁結びの神として信仰され、江戸時代にアワシマサマと呼ばれる淡島願人が加太の女神 頗梨采女(ハリサイニョ)の絵姿を背負って遍歴し、庶民の信仰を集めた。

  らしい・・。


 なぜ新田の鎮守に女神が祀られたのか・・?


でもなにか文献だけ読むとファッショナブルな感じもするし・・。
名前がコロコロ変わったり、柔軟な感じもします。

現在の阿波州神社の奉納絵馬に当時の風習を知る手掛かりがありそうだ。

神社拝殿には、女神にぬかずく夫婦、手作りの素朴なもの、山車とお囃を描いたものなど大小21 枚の絵馬が奉納されている。
これらが西東京市指定文化財 第40号である。


 祭神は女神 頗梨采女(ハリサイニョ)
と、粟=淡にちなんで、日本神話に登場する小彦名命(スクナヒコノミコト)そして高望王という記述『北多摩神社誌』になっているが。
高望王のことは詳しい説明文を見たことないが開拓の神であることは確かなようだ、今後もしらべてみたい。
本殿の隣には稲荷祠とさらに小さな石祠がある。。
針供養の石祠らしい
右側面に嘉永二年と彫られているので江戸の後期のものですね。

明治時代まで阿波洲神社の南西に愛宕台があり、この小石祠は愛宕権現として祀られていたものという。
針供養の祠
2010年ごろ、社務所を管理していた佐野さんの奥様から「最近でも、師走の頃なると祠の前に針が置かれていることがある。」という話を聞きました。
女神であったから、のち近隣からの安産祈願や三月節句による捨雛、裁縫に使った縫針を供養する、針供養の習俗が戦後にいたっても見られた。
しかし村鎮守としての氏子による祭祀は、五穀の豊穣、村の平穏である。


石碑を読み説くとさらに時代背景が見えてきます。

こちら↓は敷石記念碑 厚みのしっかりした石質です。
裏面はこちら↓
養蚕組合と氏子中により昭和七年に敷石が施されたようである。
宅地化された今の新町では桑畑があって養蚕をしていたことなど想像つきません。


こちら↓は手水舎新築記念碑 昭和15年と刻んである。
裏面には連名が刻まれている。
神社のことで名前を残すときは連名で刻むこと、皆さんでやったということが大事・・。という話を年配の氏子の方から聞いたことがある。 すぐ隣には、岩倉高校野球部のグランドがあり、のどかに声がこだまします。
昨年、万年塀をフェンスに替えたので見通しよくなりました。
手水舎、味わい深いねぇ~・・。

浄水盤には明治十五年九月と願主、世話人、氏子の連名が彫られている。
社務所は平成28年に氏子だけでなく地域の方々からも、たくさんの寄進をいただき立て替えられました。
立派です。とても使いやすくなりました。


近頃、気になってるのがコチラ↓ 神社の南側には杉林が広がって鎮守の森って感じなんだけど、林床に藍(アイ)が群生してるのだ。
いつの間に・・。
そしてなぜかバショウ(ジャパニーズバナナ)まで生えている・・。
いったい誰が何の目的で・・。
不明です。
 阿波洲神社の阿波って阿波踊りで有名な徳島のことだけど、阿波藍といって藍染めが有名である。

保谷市史には製藍では明治25年に徳島原産の藍種を購入し、試作地を開設した・・。と書いてあるが

種でも残っていて現在も生えるのだろうか・・。

その後、製茶、製藍が下火になり養蚕業が重要な位置を占めるようになったそうだ。
『保谷市史』を見ると保谷って蚕の産地で、かつて藍や織物の産地であったとの記述もあるが、それと何かが関係しているのか・・?

針供養の石祠もあるし・・。
謎は深まるばかりだが今後も調査したいと思っております。。



 その昔から上保谷新田の鎮守神として鎮座してきた阿波洲神社
女神の特徴や庶民信仰の側面をもち、農作物の豊穣をお祈りしてきました。


近所には千川上水が流れていて、かつて神社の東側には水路も引いて小川があったそうで
この辺は千川上水沿いの文化圏ともいえるでしょう。
今ではベットタウン西東京市新町の鎮守様として、地域の人々が、ちらりほらりとお参りに訪れます。

石碑を読んだりしてみると時代背景も見えてきたりして

素朴な神社ならではの良さってありますよね。 神社にエールを!ジンジャーエール
最近は自販機も設置されたので、冷えたドリンクがいつでも買えます。 お宮の境内はこの時期、たくさんの蝉穴があくわけで。

鈴虫の音に秋の気配

今年は特別な夏になりました。

地元神社めぐり(氷川神社)

2020.08.16
 けっきょく。今年の夏はどこにも旅に行かなかったんだけど・・。

地元の神社とか巡って石碑とか丹念に読み解いたり古い地元の歴史を調べたら、なんだか面白くて。
夏の自由研究みたいな感じ。

ある意味、贅沢な時間を過ごせました。

日中は痺れるような暑さなので夕方、蝉が鳴くころ
「氷川神社」に行ってきました。
あの氷川神社が西東京市内にあるなんて、ご存じでしたか?
社殿の造りはシンプルで大きくて急勾配の屋根が特徴的。
ひっそりと静まりかえっていて、いいお宮でした。
小高い丘の上に位置していて、境内にある大きな松が迫力あります。

 旧上保谷村下柳沢集落の鎮守様は榛名権現社でした。明治末の神社合祀令によって、この鎮守神も廃神の対象となり、反対運動などもあって混乱の末、大正4年(1915)に尉殿神社に合祀されたのち、大正9年には再び氏子によってこの地に戻された。古くからの榛名参拝講がその後も氏子間で守られていて、鎮守神を中心に村意識を形成していたのでしょう。しかしながら氏子の希望は東京府の許すところではなく、伝統の信仰とは関係のない、氷川神社を昭和17年に埼玉県浦和市から引宮したそうです。

氷川神社の隣には再びこの地に戻った榛名神社の小さな木祠がありました。
その前に立つ一対の笠付塔があります。
この笠付塔が明治時代までに、この地の人々を祀り守ってきた榛名大権現の数少ない遺物の一つとなっています。
文政二年・・・。江戸の後期(1819)に残したものですね。
社伝によると創建は永禄元年(1558)だそうで、室町時代からある古い神社だったんですね。

 創建のころの下柳沢集落は神社を鎮守様としてに単独の集落を形成していたようです。近所には石神井川も流れていて水場も近いし、古代遺跡の下野谷遺跡もあるぐらいだから、魚やシジミも採れて、人が住むには条件の良い土地だったのでしょう。
↑石神井川にて

 そこに住む人々が300年以上も鎮守様を中核に村を形成していた伝統って大事だと思います。
その時の政府の政策で永く続いた伝統文化が、一気に変わってしまうこともどうかと思う。
またとり戻した宗教民俗の根強さもすごいことだと思うし・・。

未来永劫、土地の文化を伝えるってことは容易なことではないのですね。

五右衛門風呂

2020.07.23
 以前から平井家の車庫の裏にひっくり返しに転がっていた五右衛門風呂。 使わなくなって何十年放置してたのでしょうか。 そのうち蓮の花でも育てようか、金魚でも入れて・・。などと考えていた。 ことの発端は
GW間もないころヤギサワベースの中村くんが、この辺の史跡を巡り歴史を調べている、とのことでやってきたとき 五右衛門風呂を発見!じっさい入ってみたいとのことで。 それで土用の日に試しにやってみるとになった。
まさか本当に五右衛門風呂に入るとは・・・・・・ サビさびなので中をよく洗って。 まぁ近頃、鉄分不足だから少々はよしとしよう。 窯だけでは安定しないので、これまた家の裏に放置してあったコンクリートの土管。
これに五右衛門風呂をドッキングするのだ! 完成したのがコチラ↓ 薪の煙の香り、いいもんだねぇ。
昭和30年代まで使っていたって言うんだから、驚きだ。
じっさい入ってみると狭くて・・。肩まで浸かれない。
明治のころの平均身長は157㎝ぐらいだったらしいので丁度良かったのでしょう。 日本人はわずか60年で10㎝も平均身長が伸びたのですね。。 溢れたお湯で火が消えそうになったり。スノコが壊れて浮いてきたり。

入り方が難しい、気を付けないと焼けどしそうだ。
風呂の淵も鉄が熱くて・・。

アホなこともたまには大事!
コロナ鬱を吹っ飛ばしてくれます。

湯舟にゆっくり浸かってのビールは爽快で。 最高でした。

ダゴールの詩

2020.06.19
 しとしと雨が一日降り続きます。

こんな時は映画鑑賞

しばらく映画館もコロナ閉鎖してたし、やっぱ映画館で見るといいですね。
三密を考慮して客席も間隔あいてるので、空き空きです。

素敵な作品に出合いました。

『TAGORE SONGS』
監督 佐々木 美佳

インドの大詩人ラビンドラナード・タゴール
100年以上経ってもベンガルの人々に深く愛されています。

変わりゆくインド 若者たちに安心安全なんて言葉はこれっぽっちなく、夢や希望に満ちて上昇志向のさなか、社会と大人をじっと見つめ今を楽しんでいる。 それでもいつも口ずさむ歌はダゴール。
タゴール・ソングスとロックやヒップホップなどが融合したものも面白い。時代は変わっていくがベンガルの心の根底に流れているのはタゴールのソウルである。
きっとインドの厳しい気候風土、信仰やカーストなどの複雑な生活様式、そこから生まれる言葉と音楽と情感がインドの空気に漂って、混ざり合って、カレーの様になっているから、しっくりと心の琴線に触れて、人々に愛されるのではないかと思う。

タゴールの詩は、とうとうと流れるガンジスのように、これからもインドの人々に引き継がれることでしょう。

前の5件へ

次の5件へ